ロバート・パーカー著「世界の極上ワイン」より

究極の舌を持つテイスター、ワインの世界を変えた男、 帝王ロバート・パーカー自身の厳しい眼で選ばれた9カ国156のワイナリーを詳述しています。それはまさにパーカー自身の過去30年にわたるワイン評論の集大成と呼べるもので、ここまで冷静かつ詳しく調べ上げていることに感嘆させられます。
 

シェーファー(Shafer)

教科書を捨て、自ら造り上げた100点満点

カベルネ・ソーヴィニョン・ヒルサイド・セレクトは、世界で最もけた外れのカベルネ・ソーヴィニョンのひとつで、確かにその原産地を表現している。ナパが偉大だった年には、これは群を抜いてつくるのが簡単なワインだとシェーファー父子は言う。だが、干ばつに襲われた年には、保水力のないやせたここの土壌は、事実上畑を枯らしてしまうこともあり得る。カベルネ・ソーヴィニョン・ヒルサイド・セレクトの果実は非常に小さく、通常はブルーベリーほどの大きさしかないが、異なるクローンも植えられている。現在、カベルネ・ソーヴィニョン・ヒルサイド・セレクトの生産量はわずか 2,400ケースしかなく、そのすべてがシェーファーの極めて熱心な愛好家の一群によって、飲みつくされてしまっている。

1978年以降ずっとワインをつくっているこのワイナリーは、ジョン・シェーファーが創業した。50歳まであと数年という頃、企業で大変な成功をおさめた彼は、第二のキャリアを始めようと、カリフォルニアを訪れた。いくつかの区画を訪問した後、彼は手入れされていない、12ヘクタールの畑を気に入った。そこには様々な白や赤の品種が植えられ、荒れ果てた家が建っていた。ナパでよく知られた栽培家の何人かが、既にここを購入するのを断っていたという事実にも臆することはなかった。そこにはシェーファーが探していたものがあったのだ一丘の斜面にある水はけの良い、やせた火山灰質の土壌である。その区画はまた、現在ではスタッグス・リープ・ディストリクトとして知られる谷の南端にあり、日中の気温の高さと、サンフランシスコ湾からくる涼しい夕方の潮風がバランス良く組み合わさっていた。

彼はこの83.6ヘクタールの土地を購入し、すぐにそこへ移り住み、シカゴでの会社員生活を捨ててブドウ栽培家となった。最初は、ブドウはセント・ヘレナ協同組合に売られ、そこからトラックでモデストにあるガロ・ブラザーズの巨大な工場に運ばれ、強いバーガンディにブレンドされていた。しかし、ブドウの品質があまりに良かったため、地元の醸造家たちが彼のブドウにプレミアムを支払うようになった。

1977年に自家製のワインをつくった後、ジョン・シェーファーは思い切って決心をし、1978 年には最初のヴィンテージ、シェーファー・ヴィンヤーズ・カベルネ・ソーヴィニョンが生み出された。彼の息子ダグは醸造学とブドウ栽培を学んでカリフォルニア大学デイビス校を卒業し、1983年には常勤のワインメーカーとしてシェーファーで働くようになった。1年後にはエリアス・フェルナンデスが加わり、それ以来ずっとこのチームでワインをつくっている。

ダグ・シェーファーとエリアス・フェルナンデスのどちらもすぐに認めたことであるが、最初の4回ないし5回のヴィンテージは教わったとおりのワインづくりをしたため、ワインは非常に安定感があり、健康で、傷んでしまう可能性は全くなかったものの、興味をかきたてられるものではなく、平凡な味わいだった。

 

「1986年になる頃には、僕たちは教科書を放り捨てた。ワインの声を聞きたかったからだ。ブドウが育った場所を表現するようなワインをつくりたかった。無傷で安定したものではなく、大柄で汁気が多く、大胆で享楽的なワインをつくりたかった」。それら初期のヴィンテージは輝かしいワインだったのだが、1990年代初め以降、シェーファーの品質がさらに向上し、世界で最も偉大なワインの仲間入りをしたことは疑問の余地がない。

彼らのカベルネ・ソーヴィニョン・ヒルサイド・セレクトはとりわけ、世界で最も人の心を動かさずにはおかないないカベルネのひとつである。シェーファー父子がいくぷん反省するように言うには、「2004年に、私たちはワインづくりを始めて25周年を祝ったが、それだけの経験を積んでもなお、栄誉の上にあぐらをかいてしまうことはできない。つまりこういうことなんだ――毎年チャンスはたった一度しかなく、チャーリー・ブラウンがいつも言っていたように、英雄になるか愚か者になるか、どちらかしかない。ブドウ栽培とワイン醸造のプロセスの間には、間違えたらすべてがめちゃくちゃになってしま. うようなポイントが100ぐらいある。1本のワインをつくるにはどうすればよいかについて、我々は多くのことを学んだが、それでもなお一歩間違えれば『愚か者』になってしまうんだ」。